この間
先日、有吉弘行氏とマツコ・デラックス氏が出演してる番組(名前忘れた)で、蛭子能収氏について話していた。
蛭子氏は、軽度の認知症と診断され、現在、仕事を休んでいる。有吉氏とマツコ氏は、蛭子氏さえ良ければまた一緒に仕事をしたいと話していた。
テレビに出るという仕事柄、また、蛭子氏のキャラクターという立ち位置を踏まえると、ボケ・突っ込まれる役回りが多かったと思う。
今後はそのボケが、意図したものではなく、器質的なモノになっていく事に、有吉氏・マツコ氏は「やっぱダメなのかなぁ」と憂慮していた。
これは、大変有意義な内容だと思う。
仮に、蛭子氏が望んで共演が実現した場合、何というか、凄く対等な関係だと思うからだ。
人は、健常者・障がい者という枠組みで語られる事もあるが、すべからく、足りない生き物だと思う。ただ、その足りない部分が日常生活にどの程度影響するか、という違いだと思う。
以前のブログでも書いたが、所謂、障がい者という枠組みは、補助金を活用する際に必要な枠組みでもあるが、それは、多数派が少数派を区分けしただけに過ぎない産物で、自分は特別な意味はないと考えている。
ちと、話が逸れたが、仮に蛭子氏が器質的なボケをして突っ込まれたら、有吉氏に「この特殊性癖め」とか、マツコ氏には「大柄過ぎる」とか突っ込み返したらいいと思う(突っ込みの質に対して言及しないでね💦)。
足りない者同士が、互いの足りない部分を認めつつ、笑いに出来たら、更にいい世の中になると思うのですよ。
でも、観ている側にしてみれば、より高いリテラシーというか、倫理観が求められるのも課題だと思う。信頼関係があってこそのやり取り。
違いを認め合う、なかなか出来ないんだよなぁ。
と、子どもたちとすき家でそんな話をしていたのでありまふ。
鬼ころし
昨年、プライムビデオを利用してから、映像作品に触れる事が、父・子共に圧倒的に増えた。
その中で、我が家にどっしり根を下ろした二作品がある。それが、「鬼滅の刃」「メイド・インアビス」である。
今回は、「鬼滅」が社会現象とまで呼ばれるヒットを飛ばしている理由を考えてみた。
1、ストーリー
時代は大正。始祖の鬼に家族を殺され、妹を鬼にされてしまった主人公が、妹の治療(?)や始祖の鬼への復讐を目的に、「鬼殺隊」に所属し、各地の鬼を倒していくストーリー。話が進むにつれ、鬼となった人にも、人をやめて鬼になる理由が明かされていくが、切なかったり、到底理解が出来ない事もある。
2、内的なヒットの理由
1)何よりも、週刊少年ジャンプ連載ということもあり、テンポもよく、男が好きそうな「日本刀」「技」「柱(隊長的なヒエラルキー)」「美少女」などもふんだんにまぶっている。最近の女性も、こういった要素に趣向があることを公言するのが珍しくないと感じる。
また、「柱」と呼ばれる、所謂「隊長」的な人物達にも、鬼を憎む理由があり、ただただ好戦的なストレンジャー集団ではなく、鍛錬に鍛錬を重ねて強くなった事が描かれている。無論、彼らには才能があるのだろうが、才能を十分に活かせる鍛錬があり、理由もなく強いのでなく、死戦をいくつも超えた結果というのも、読者にも共感を覚えさせる要素なのではなかろうか。
戦闘シーンの描写は、腕が切り落とされたり首が飛んだりと、激しめ。しかし、戦闘シーンよりも、鬼殺隊・鬼の描写が個人的には見どころじゃないかなぁと思う。決して、多くの物を望んでいる訳でなく、平凡質素な生活を人や鬼に壊されることで、鬼になるか鬼を憎むかに分かれていく。
2)アニメ版は、技のエフェクトや、一人称視点で景色が動く様が非常にスムーズで綺麗だと感じる。こういった演出が丁寧だと、信用に足るアニメだと思う。
3)週刊連載の特徴なのだろうか、キャラが豊富なのである。心優しい主人公、普段は頼りないがピンチの時には真価を発揮する友人、ガサツなマッチョ美少年などなど。読んでいて、大体推しキャラが見つかるのではなかろうかという、確率の高さ。
3、外的なヒットの理由
https://toyokeizai.net/articles/-/342067
などなど。
OP曲「紅蓮華」の馴染みやすさや、著名人のSNSでの発信、広報媒体、アニメ制作会社の手腕といった感じですかいね。
また、人気が人気を呼ぶ入れ食い状態化しているんじゃねぇかなぁ、と。
経済には「景気」という言葉がある通り、「気」なのだ。何となく物が欲しい、とか。収入の増加とか物価の増減とかと強い相関関係があるから、一概に同じとは言えないが。
4、個人的要望
キャラクターが芝居をする描写が少ないのが残念だなぁと。恐らく、週刊少年誌の読者層がターゲットという事と、テンポを上げるためだとは思うが、セリフでの説明が多いのだ。例えば、痛い時に苦悶の表情と共に「い、痛い…!」というセリフを載せてしまっている。これは、芝居ではなく、説明になってしまう。
例えば冒頭にチラッと出した「アビス」では、激痛に耐える少女は、猿ぐつわを噛まされ、仲間に押さえられながら失禁してしまう。
自分的には、言葉に出されると興が削がれるというか、「あぁ、言っちゃうのね」となってしまう。言葉に出さずとも、表情や動作、更に言えばコマの大きさや背景の色など、ノンバーバルな部分からそのシーンが何を意味するかを想像したいのだ。日本人的と言えば日本人的なのかなぁ。
5、まとめ
色々と考えてはみたが、個人的には、よく分かりましぇん!というのが正直な感想。
めっちゃ面白いとは言えないが、やや面白いくらいの印象。
例えば、パイロットの精神面にフォーカスしたガンダム・エヴァ。男女ともに体を張って戦うドラゴンボール・セーラームーン。切り口が真新しかったのよ。
しかし、個人的に真新しい印象が少ない鬼滅。何故ここまで支持されているか分からん。
分かる方いたら、教えて下さい。
中和だ、中和
何はともあれ、薄毛で悩んでいるのである。
ここ数年、自らの毛の薄さに、ジャパニーズホラーの如く忍び寄る得体の知れないものを感じずにはいられない。鏡の前に立つ度に、どう誤魔化そうかと、費やす時間が増える一方なのだ。
そもそも、毛が薄くなるのは何故なのだ。
数年悩んだ挙句、辿り着いた一つの結論は、遺伝だ。脈々と受け継がれてきた命のバトンの中で、母の胎内にて生を授かった自分は、ソレを受け継いでしまったのだ。
しかし、あまりにも理不尽だ。キチンと整理されたテーブルの上に、与えられたカードを並べた際、「薄毛」の手札がある事に何故気付かなかったのだろうか。いや、そもそも、そんな交渉の場すら無かった。「はいよ」と渡された荷物の中に「薄毛」と書かれたちっちゃな紙切れが、奥の方に丸かっていた。それに気付いたのが、数年前。もう、どうにもなりゃしないのであるわけで。
リアップという、最終兵器的な、北朝鮮における核兵器的な代物にすがった時期もあったが、結局はダメだった。やはり、遺伝という抗えない物の前には、核兵器でも歯が立たなんだ。恨むぜ、水谷豊。
そして、厄介な事に、このバトンは息子も受け継がざるを得ないのだ。
息子よ、なるべく毛深い伴侶をめとられよ。中和し、この系譜を絶たれよ。
毛同様、内容も薄いので、文字の多さで中和してみた。
エロスの果て
暇だと考えちゃうのが自分の癖でして。
今日は、エロスについて。エロスを俯瞰してみよう。
こういうの書く場合って、文学なり文献なりを読んで書くほうが、厚みや奥行きがあっていいのだけれど、自分はそんな知識はないので悪しからず。
人って、いや、人に限らず動物ってすべからく、性欲ってあるじゃないですか?あれって、何でひた隠しにされがちなんですかね?
生き物には三大欲求ってのがあって、食欲・睡眠欲・そして性欲があると。何で、性欲だけ「あぁ、恥ずかしい」って扱いを受けてるか少し不思議だなぁって思う。
きっと、交尾をしている時とか性欲に取り憑かれている時って、限りなく動物に近いから敬遠されがちって事なんだと思う。理性的でないというか、とにかく野に下ったような荒々しさがあるじゃないですか。そこが美しくないとでも言いますか、不当な扱いを受けるのですよ。
もし仮にですよ、人間の文化の中で、性欲とエロスが結びつくのではなく、食欲や睡眠にエロスが結びついていたら、どんな世の中になるのか。これは、食事や睡眠が、限りなく動物的で、人様にお見せするのが恥ずかしい、という価値観が築かれていたらという事。
子どもが食べられるような物は、今で言うグラビア的な扱いで、きっと18禁のメニューがあったりするのだろう。生クリームなんて間違いなく18禁だね。後は、唐辛子。これも人前で食べたら陳列罪で逮捕だね。ナイフやフォーク、布団や枕はアダルトグッズの扱いを受ける。仕方なしに、小売店で買う場合、きっと中身が見えない紙袋に入れられ、そそくさとレジを後にする事になるだろう。布団なんてすぐ分っちゃうけど…。
その一方、性欲に関する物は、当たり前のように並べられているのだろう。ZIP!ではTENGA特集やったり、ZEROでもコロナ禍から営業再開した風俗店の特集したり。
逆に、今のようなグルメ情報は、トゥナイト2の枠に追いやられちゃったりするのでしょうな。やはり、食べ歩きは山本監督何だろうな。
もうね、めちゃくちゃだね。でも、一度見てみたい。伊豆あたりの秘宝館くらい見てみたい。
さて、話は現在の価値観に戻ります。
神話では、アダムとイヴは元々一つの体で、知恵の実を食べて、身体を分かち、互いを意識することが出来たが故に、羞恥心を覚え、イチジクの葉で体を隠した、なんてのもある。
日本でも、イザナミとイザナギが目合い、日本列島が出来たそうな。因みに、イザナミは、火の神・ホノカグツチをお生みになった後、陰部を火傷し、それが原因でお隠れ遊ばせたのだとか。すげー災難。痛そう。
尚、神話では、
712(和銅5)年にできた『古事記』の場合、イザナギが「自分には成り成りて成り余れるところがある」と語ったところ、イザナミは「自分には成り成りて成り合わぬところがある」と答えたので、イザナギが「汝が身の成りあわぬところを刺し塞いで国生みをなさん」といって関係したという。
なるほど、目合いも格調高くていいんじゃない?
兎にも角にも、いつの世も、逢瀬の果てに我々がいるのだから、「エロいっ!」と目を背けずに真剣に考えたいものだなぁと思うわけであります。
しかし、初めて交尾をしようと思った我々の祖先って、どんな感じだったのだろうか。上記の、「ジブン、ヨブンナモノアル」「ジブン、タリナイ」「ジャア…」ってな具合だったのか。何故か原始人口調だけど。
案外、不完全な者同士の自然の成り行きだったのかなぁ。心も体も。
Why every people⁉︎
未だに自分の中で答えが出せない事の一つに、何故人を殺してはいけないのか?というものがある。
あ、別に殺したい訳ではございません。悪しからず。
人類至上(中心)主義というのがあるあらしいが、言い換えれば、環境は、人間が活用する為にあるという考え方なのだそうだ。まぁ、おこがましいったらありゃしない、と感じてしまうわけだ。
我々は、自らを「ホモ・サピエンス」と名乗っている。これは、「賢い人類」という意味らしいが、これまたおこがましいと感じる。
ちなみに、ホモ・ネアンデルタールは、ネアンデルタール谷の人類とかって意味だった、かな?住んでいた場所が、名前になるのであれば、賢いってのは大仰だなぁと。
生物の群体を構成する上限は、100〜150らしいが、我々の祖先は、「虚構」を口にする事で、この上限を振り切った群体を手にする事ができた、と。言ってみれば、宗教なんかが馴染み易い。共通の神とか教義とか、ある理念を共有して更なる群体を構成する事に成功したわけだ。
自分の身近な違和感は、家庭内にも。
我が家には猫がいる。皆は、猫の「餌」というが、自分は「ご飯」なのであるわけで。何か、餌というと、明らかなヒエラルキーがそこに感じられてしまい、何か嫌なのよね。人間、そんなにえらいんかなぁと。
仮に、他の生き物と人間が対等だとするならば、何故、人間は殺してはいけないのか?蚊やゴキブリは、割と躊躇なく殺せる。しかし、人間は躊躇しちゃうなぁ。
害があるか無いかでいえば、明らかな害をもたらしているのは人間の方だし、「謙虚に生きる」が目標の自分にしてみれば、かなりの違和感がある。
そして、命に貴賤はない!と掲げると、じゃあ人間は?ちゃんと殺せる?と戻ってくる。
そんな事を考えながら、今日も床に就くのだ。あぁ、8時間しか眠れない…。
あ、そんなコンディションの時はこれを聴いてます。
https://m.youtube.com/watch?v=lI2y5znoSd0
どーぞー。
それは何なのか
最近話題になっている、「検察官の定年延長問題」が、何が問題なのかさっぱり分からくて、夜も7時間しか眠れないので、ちと調べてみた。
調べてみたら、そもそも検察官がどんな人達なのかしらなかったなぁと痛感したです。
一、検察官とは
<検察官の仕事>
①検察官のみが持つ起訴権基礎をする権限は検察官が独占し、起訴・不起訴の決定は検察官の裁量にかかっています。被疑者に十分な嫌疑がある場合には「起訴」し、その有罪率はほぼ100%と言われます。しかし、仮に嫌疑が十分にあったとしても、犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重、情状、犯罪後の状況等により、「不起訴」にすることが許されています。犯罪者として裁くかどうかは、検察官の判断一つにかかっているため非常に責任の重い仕事です。
②巨大な組織をバックに社会正義を貫く
検察という組織は、他の行政機関同様に、上命下服の原則が行き渡る一枚岩の強大な組織です。捜査は独任制であり、各検察官が自己の名で検察権を行使する仕組みになっています。
観た!
先日、トイストーリー3をテレビでやっていたので観ました。感動のラスト、と触れ込みがあったが、ピクサーの物作りのメッセージの印象が強く、そこまで「感動」というものは感じられなかった。
あ、ストーリーね。
ウッディ達おもちゃは、持ち主のアンディに遊んでもらうのを楽しみにしていたが、そのアンディも17歳になり、大学進学を控えていた。大学生ともなれば、子どもの頃のおもちゃで遊ぶはずもなく、屋根裏に保管されようとしていた。ただひとり、アンディのお気に入りのウッディは、アンディと共に連れて行ってもらえる予定だったが…。
書くのが億劫になってしまったので、気になる方はご覧になって下さい。
ストーリーのラストで、ボニーという子にウッディ達は全員引き取られる事になるが、ここに、ピクサーとしての物作りに対する想いが感じられた。
今回の話の中にトトロが出演しているのは、観た方ならご存知かと思うが、ピクサーのスタジオジブリに対するリスペクトが垣間見える。ジブリ=宮崎駿の「子どものために作品を作る」という共感の現れだと思う。
兼ねてから、宮崎駿は、その時を生きる子どものためにアニメを作り、「この世界には、面白いものがいっぱいある」という事を伝えたかったのだそうだ。
アンディ=視聴者が大人になり、ピクサーから離れていってしまっても、ウッディ=ピクサーは、楽しみにしてくれている子ども達のためにアニメを作り続けていく、という意思表示が現われていると感じた。
ストーリーに戻るが、イモムシ組という、1歳児くらいの子ども達のクラスに配属されたバズ達だが、対象年齢から外れた子ども達に、乱暴に遊ばれるのは、おもちゃにとっても不本意であり、もう少し年齢の上の子ども達のクラスに配属先を変えてもらうべく依頼をする。この辺にも、ピクサーとしてのターゲット層を明確にしている姿勢が垣間見える。
ストーリーの語り方や、随所に織り込まれる「おもちゃだから」という特徴を生かしたギャグシーン、メッセージの発信の仕方、おもちゃ独特の質感など、どれを観ても「すげ〜な」と舌を巻いてしまう。あらためて、ピクサーには脱帽であります。
個人的な一番のお気に入りは、バービーの恋人「ケン」のカクカクした動きでした。