初観劇

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昨日、初めてSPACの芝居を観てきましたよ。

舞台の写真を撮らなかったので、載せることが出来ないけど、凄く幻想的でした。ガンダムがすっぽり収納できるほどの大きな舞台に水を張り、上の写真にあるように、石のオブジェを3箇所に配置してある。客入れの段階から、そこをキャンドルライトを持った役者がゆっくり歩き、舞台奥にはスチールドラムやら何やら楽器が沢山ありましてですね。生演奏も楽しませてもらったですよ。ガムラン(?)っぽい音楽で、これもまた、観ている側に奥行きを感じさせるいい塩梅でした。

ストーリーはこっちに。

ja.wikipedia.org

ギリシャ悲劇ってやつで、思想の違いから、身内の不幸を招き最後は、嘆き、終わるという感じ。

随所に日本っぽい要素が散りばめられており、海外で上演するのを前提とした演出なのが窺える。しかし、日本人である自分が観ても、写真にあるような盆踊りがあったり、影絵や人形浄瑠璃、舞台の石のセットも、最終的には庭園に見えたりと、日本人なら懐かしさを感じる原風景に見えてくるのだから、素直に凄いなぁと思たところでふ。

ギリシャ悲劇という独特な「型」があり、役者のフィジカル面も型を体現するためにソリッドに鍛えられているなぁと言った印象。セリフを口にする話し手と、体で表現する動き手が分かれており、セリフに対して粛々と、時にコミカルに、時に躍動的に演じる役者の心意気に、凄いなぁと思ったです。走る時の水飛沫や、野外劇なので吹く風も、衣装をはためかせとてもいい効果を醸し出していた。

さてさて、作品としてとても良いものを観させてもらったなぁという所だが、自分の感じたことをつらつらと。

パンフレットというのか、観るときに配布される「演出ノート」なるものがあり、物語の概要、演出の内容・意図・背景が書いてある。物語のテーマは、古代ギリシャの概ねの価値観に対して、主人公・アンティゴネが提唱する博愛主義にある(これも演出ノートに書いてあるのよ)。要は、保守に対するリベラル、多様性が大事という事になると思うのだが、「演出ノート」にて種明かしをされてしまうと、見方・受け止め方を狭めてしまう事になっちゃうんじゃないのかなぁと感じてしまうのだ。

また、あまり詳しくは書けないが、SPAC主催のイベントに参加させてもらう予定だったが、残念ながら参加出来なかった経緯がある。その際の、SPACの意見を聴くと、自分としては、大きな者から小さな者へのネガティブな感情がどうしても感じられるのだ。

多様性を謳うのであれば、寛容さとか共生する意識というものが外せないものだと思うのだ。いい作品を作るのだから、尚更そのスタンスが残念に感じられてしまう。

あと、これは個人的な好みのことだけど、素晴らしい作品だけど、参加したいかと問われたら「んー、あんまり」といった感じ。作品や演出のために役者があるという風に感じるのだ。勿論、それはそうなのだが、出たがりな自分には物足りなく感じるだろうなぁと思える。これは、いい悪いではなく、本当に単純な好み。「参加なんて山崎には無理だ」と言われるのは重々承知しております、わきまえておりますです、はい。

よく言われるのが、ドラマは脚本家の物、映画は監督の物、舞台は役者の物、と。だとしたら、せめて、役者の好きにさせてくれる安全地帯を一つでいいから残しておきたいと思うのだ。ただ、全て1か0かではなく、バランスの問題だけど。

音楽で言えば、全体の調和として観せ指揮者のウェイトが高いSPACはクラシック、自分達がやっているのがHIPHOPやBEBOPといったストリート由来な物なんだなぁと新ためて感じた。そして、RHYMESTERのMummy Dが言っていた。「俺らが欲しいものって何だと思う?」って。ストリートみたいな場所で育ってきた自分にとって欲しいのはこれなんだよねぇ。嗚呼出たがりな自分…。

www.youtube.com

とまぁ長々と書いたけど、SPACに対しては素直にRESPECTを、多様性大事だし。そんな感じです。

お疲れ様でした

浜松市でコロナが治りきらない中、大きな声では言えませんが、シン・エヴァンゲリオン観て来ました。

丁度、主人公たちと同じ年齢で作品に出会った自分にとって、今回の公開は「祭り」でありまして。前日、率直な反応として、眠れなかったのであります。

さてさて、どんな作品だったか、語りたくてしょうがないので、ネタバレも含むと思われますので、ご注意を。

端的に感想を述べると、「庵野さん、お疲れ様でした」です。

前作「エヴァQ」にも出てきた単語で、「エヴァの呪縛」と言うものがあったが、一人の作家として、エヴァが足かせのように常にくっついていたのだろうと思う。ガンダムの富野氏もボヤいていたらしいが、「自分はガンダムしかやらせてもらえない」みたいな気持ちがあったのだと思う。ある意味、キラーコンテンツを持つが故の悩みとでも言うのか、ド凡人からしたら憧れてしまうけど…。

話がややずれてしまうが、自分が作品を観るときに心がけている事があり、複数層に分けると言う事。

一層…ストーリーの把握

二層…作品のテーマ

三層…作家の思想

です。これは、元ガイナックスの社長・岡田斗司夫氏の受け売りなので、ご興味のある方は是非。

ストーリー…刃牙。父親との親子喧嘩。

作品のテーマ…エヴァからの卒業。

思想…奥さん大好き、ありがとう。これからもよろしく。

かなぁ。

個人的な面白い気づきとして、今回の「新劇場版」からの新キャラ「真希波・マリ・イラストリアス」は、明らかに奥さんの安野モヨコじゃね?というのがあった。

あと、アスカ。私小説の体裁であるエヴァにおいて、庵野氏の中の一つの人格としてのアスカと、向き合えた事が微笑ましかった。作品を観た当初は、庵野氏の元カノなのかなぁと思ったが、かなりどんでん返しな設定が明らかになったので、庵野氏は他人をここまで鮮烈に描く人柄とは思えない。故に、エヴァの呪縛に取り憑かれた一人として「好きだよ」と思いを伝えられた事は、同じく不器用な自分としても、素直に良かったと思える。

綾波は、エヴァそのもの・作品そのものとしての比喩的なポジションなのかなぁと。だから時間が経った分だけ髪の毛が伸びてたんかなぁ、と。

また、今後の予想として、エヴァは次世代のクリエイターに引き継がれる事になると思う。自分たちドンピシャ世代にとっても、恐らく庵野氏にとっても、エヴァは作品と同時に「現象」とも言うべき物である。その現象は、自分の意思とは別の所で起き、盛り上がり、狂乱し、時には激しく叩かれたりもする。前述の富野氏と全く同じかどうかは不明だが、「もういいなぁ」みたいな思いがあったのかなぁなんて考えてしまう。「あとは任せたよ」と。

作家は自分の恥部を晒してこそ魅力的な作家たり得る、なんて聴いたことがある。自分にとっても「現象」だったエヴァに、一つの終止符が打たれた。喪失感に苛まれるかとハラハラしたが、意外とスッキリした心持で助かった。

お疲れ様でした。コロナが無ければ、きっといい打ち上げになるでしょう。コロナの馬鹿‼︎

強引だけどさ

あいも変わらず、コロナコロナのニュースで溢れ返っております。

自分の趣味でもある芝居も、この状況だと開催し辛いので、残念極みいるところなわけです。

さて、どんなに強引でもいいから、なんとか終息させる方法はないかと考えたわけです。

そりは、何がなんでも外出はまかりならん作戦‼️

内容は、作戦名通り。先ずは準備から。


①概ね2週間、自宅にて過ごさなきゃいけないので、食糧や必需品、余暇を過ごす手段を用意。


②インフラ維持、消防・救急、警察、介護等、緊急を要するサービス以外、外出は禁止。職務にて外出する方は、職場にて寝泊まり。外出者は即逮捕。


③ドメスティックな課題を抱えた家庭の因子は、容赦なく隔離


④費用は、国債発行&日銀買取により捻出。理論上無制限。基本、現物支給。


限りなく人権を無視した本作戦。到底、受け入れられるはずもないとは思うけど、これくらいしなきゃ治りそうもなさ気。

でも、仮に実施されるとしたら、終息にあと何年掛かるか分からないよりも、2,3週間の辛抱すれば大丈夫だとしたら、気持ちが揺れるところだなぁ。

エッジ

FF4に登場した忍者で、エブラーナ国第一王子。

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ではなく、今回は優位性という意味でご理解下さい。

お世話になってる、ムナポケの方々が参加される、オンライン演劇祭が近々開催されます(https://679.jp/archives/event/7mintheater)。

普段の、人前で行う公演が出来ない中で、オンラインで演劇をやるという事に興味があり、色々と考えてみた。


①演劇の1番の優位性・エッジは、何より人の目の前で何かをやる、という事にあると思う。その優位性の翼をもがれた状態で、人がエンターテインメントの可能性を、如何にして、どこまで広げられるかが楽しみです。


②物理的に目の前ではないが、画面の向こう側では役者が演劇を行う。なかなか無かった状況の中で、エンターテインメントとしての資源は何なのか。

1)役者

2)脚本

3)カメラワーク

4)カット割り・編集

5)演じる側見ている側とも同じ時間帯を過ごしている

6)zoom

1)、2)については言わずもがなとは思うが、3)、4)についてはなかなか難しいと思う。それには、製作の時間、カメラを複数所有するなど資金的なハードル、生で編集(?)する技術が求められる。

5)に関しては、日本国内という前提だが、唯一の共有している部分じゃなかろうか。脚本に組み込まれる部分だとは思うが、ここをどう使うか。

6)今までに何度かzoomを使ったが、zoom自体にどんな資源があるかを知っていた方がより優位性があると思う。自分はよく知らない。


③似たような既存の媒体として、ニュースやその他情報番組、ニコ生等があるなぁと思った。これらを面白いと思うところは何なのか、そこを掘り下げていくと、(もし自分が参加するなら)面白い試みが出来るのではないかと思う。

という事は、既存の媒体では出来ない、演劇ならではの手法をプラスしないと、いけないのかなぁと思ったりもする。


④もし自分が参加する側としたら、撮影してくれるスタッフさんに協力してもらい、カメラは動きながら芝居を追っていく状況を作りたい。静止した画面では、なかなかに退屈してしまうと思うから、ここで臨場感を出したいなぁ。

②で触れたが、3)ならば、実現可能な範囲では無かろうか。

あと、個人的な趣向で、料理を何かしら作りたい。料理と同時で芝居が進行するって、今まで無かったから、何か面白い物が出来るのではないか、と思う。言うならば、「生」料理の鉄人的な。

この「生」感をどの様に出して、観ている者と共有出来るかが、面白いかそうではないかの分水嶺になると思う。


色々ブツブツ言ったけど、どんな作品達が出来上がるか楽しみです。

今Deer

今更ながら、「風の谷のナウシカ」全7巻を読みました。

今まで、アニメ版は観てきたんですよ。それこそ、金曜ロードショーとかでも散々やってたし。そういった方、多いんじゃないですかね。犬も歩けば棒に当たると言いますが、人間生きてりゃナウシカに当たる、と言っても過言ではないです。

さてさて、話の内容ですが、アニメ版とコミック版はガラリと違います。大体、コミック版の2巻の途中くらいがアニメ版になってますです。また、アニメ版には風の谷やペジテといった小さな町やトルメキアという軍事大国が登場しますが、コミック版には、更に、宗教大国・土鬼(ドルク)が登場し、腐海にのまれ、残り僅かな大地を奪い合う勢力争いの中で、ナウシカが人々や自然、蟲と心を通わせていくのが主なストーリー。

実は、産業革命から千年後に文明の頂点を迎えた人類は、世界を汚濁まみれにしてしまった結果、巨神兵という裁定者を作って判断を仰いだんですね。その結果、

昔「ひょうきん懺悔室」の神様はグレート義太夫だと思ってたのが自分だけ ...

となってしまい、「火の七日間」で文明を一旦リセット。そして、世界のデバッグツールとして腐海を作ったと。腐海が、汚れた土を浄化している設定は、アニメ版にもあったので馴染みやすいかと思います。その腐海の用心棒として作られたのが、王蟲(オーム)だったと、こういう設定なんですねぇ。しかも、世界が瘴気に満ち満ちてもなんとか生きていけるように、先人達は人類の体を改造しちゃったんだよね。だから、逆に、全く浄化された空気でも生きていけない。つまり、浄化をするために腐海が広がり、腐海から逃れたとしても綺麗な空気では生きていけない。ハッポーフサガリ‼︎

そんな巨神兵腐海を作った先人達は、土鬼領内にある「王の墓所」という場所に、人類再建の要(綺麗な空気でも生きられる術もね)用意し、ナウシカ達に協力を呼びかけるが、ナウシカは拒否する。

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アニメ版は、自然と共に生きる・自己犠牲と博愛みたいなのが印象として強かったけど、コミック版はそこは通過点としてあるが、生とは混沌である。または、闇の中にある光こそが私達の求める生なのだと。皆に真実を語らぬまま、ナウシカは業とも言うべき物を背負い、夜へと向かう人類の黄昏に「生きねば」と呟くのである。

なんと言うのか、"矛盾"がコミック版のナウシカには、よっこらせと腰を降ろしている気がするのだ。それは作者のハヤオ・ミヤザキの作家性とも一致すると思う。例えば、兵器は好きだが戦争は嫌いとか。生きたいが生かされるのは嫌という。

登場する出来事やキャラクターも、メタファーが多く、火の七日間は核戦争で、巨神兵核兵器そのもの。終盤、ナウシカは自らの目的の為に、ナウシカを母と慕う巨神兵を葬らなければいけないと分かりつつ利用する。

綺麗事では生きていくことは出来ない。皮肉な物で、トルメキアのクシャナ王女は当初、終盤のナウシカの様な考えだったが、ナウシカと関わるうちに博愛や自己犠牲を心得ていった。逆に向かっていったのだ。

私利私欲にまみれていた描き方をしていた王族達も、愚かな大衆に辟易し、国土や国民を顧みない虐殺へとひた走ってしまう。

連載から10年以上経つ中で、ハヤオ・ミヤザキの価値観も変容していったのだろう。そう考えると、とても良い作品に出会えた。

Third attribute

寝る前にしている事があって、良い妄想をする事。これで、寝つきが3割〜4割増しですよ。よしんば眠れなかったとしても、楽しい夜が過ごせる事請け合いなので、おすすめです。

そんな、夜毎の楽しみの中で生まれた産物が、第三属性の存在だ。

世の中には、女性・男性と言う、対を成す二属性がある。人間を含めた動物も例外なく、この二属性で成り立つ。例外的に、LGBTという場合もあるが、いずれにしても、女性・男性の嗜好の食い違いや、体の不一致等、前述の二属性が基本になっている。

だがしかし、この二属性の市場に、全く新しい第三属性、或いは、第四属性が登場したらどうなのだろうか?と、思ってしまった。あぁ、寝たいのに、また妄想しちまったぜ。

しかし、悲しいかな、全くイメージが沸かない。なので、無理やり煮立たせてみた。

先ず、嗜好だ。既存の女性・男性と嗜好を共有できるか。

数的な優位性で書きますが、一般的に男性は女性を・女性は男性が好き、とされている。この市場に乗るのか、それとも、この二属性には全く興味を示さないのか。個人的には、別属性扱いにしたいので、二属性にはあまり干渉したく無いなぁ。ならば、子孫を残す生殖はどうするのか。単体で生殖するとなると、アメーバとか、雌雄同体みたいな感じかな。

ただどうせなら、現実の二属性の間にも、伴侶を見つけるまでにスッタモンダがあるじゃないですか。そういった面白さを持たせるなら、第三属性と対を成す、第四属性も必要になるんじゃないのか?そうなってくると、考えるの面倒くさいなぁ。ま、考えるのここまで。

次に、名前だ。

「おんな」の言葉の響きだったり文字の形を見ると、やはり、曲線美なイメージがある。「おとこ」だと、何となくコツコツした硬い響きで、出るとこ出てるイメージ。

ならば、第三属性のイメージからくる名前は?二属性とも最初に「お」がつくので、「お」から始めよう。何となく可愛いイメージで持っていきたいし、新しい分野を開拓して欲しい気持ちもある。とすると、まだ使われていないく、言葉の響きも二属性にない「ら行」「は行」を推したい。

命名!第三属性の性別名は「おろは」でいかがだろうか。

もう疲れた。ので寝ます。

借景

ふと、商売を思いついた。

毎年毎年、宝くじを購入して、当たったらこんな家に住みたいなぁと、フーセンオジさんが如く妄想を膨らめるのである。そりゃもう、パンパンに。

その妄想の中に、自宅にいながら世界の風景、とりわけ、高層からぼんやり下を眺める風景を見られないかなぁと思うのである。ほら、バ◯は高いところが好きって言うじゃないですか。紳士は金髪がお好き、みたいな。ププッピドゥー、みたいな。

と、そこで思う。お好きな風景を定額で堪能出来たとしたら、結構自分はありがたいなぁと。

ここからは、タラレバしかないので悪しからず。

①先ずは、スクリーンだ。と言っても、どの家庭でもスクリーンを設置できるわけではない。希望としては、自分が座って(立ってでも)眺める窓の位置を決める。その窓に合わせた、スクリーンの設置(イメージ的には、透明なプラ板のような物)。


②そして、①のプラ板のようなスクリーンに、映像を鮮明に投影する技術が必要だよね。例えば、スカイツリー展望台の景色なら、限りなく自分の目で見た風景に近づけたい。


③②の技術が量産態勢に入ったら、月々定額でこれを利用してもらう。ただ、プロジェクターは、場所も取るし、モニター的な物にしたいです。


④希望の風景があれば、現地に撮影にも行っちゃうんだぜ。例えば、ナイアガラの滝でもいいし、どこそこのカフェから見た街の雑踏とか、空撮の映像とか。女湯とかはNGです。それらを、オプション料金で個別の撮影。自宅にいながら、動く風景を楽しめるって寸法だ。尚且つ、スピーカーを設置すれば、現地の音も出して楽しむことが出来る。


これらの、ちょっとした日常生活内での贅沢を堪能してもらう、と。

世の中的にも、コロナの影響で、安心した外出が出来ないし、生活に余裕のあるインドア派にはそこそこ需要があるのではなかろうかと踏んだわけだ。好きな風景を目の前に、のんびりとコーヒーを飲む。意外と贅沢なんだよね。

東洋の庭園技法に、借景というのがあるらしい。庭ではないが、自宅にいながらデジタルで風景を拝借しちゃおうという、Digitalな借景。名付けて「D-shack(ディー借(シャック))」。

名前まで借りてきたという、生粋のパラサイトっぷりなわけです。


あー、楽しかった。