>|<について

ムナポケ2025年公演「>|<」終演しました。ご来場して頂いた皆様、共演者の皆様、関わって下さった皆様、ここでお礼を申し上げさせて頂きます、ありがとうございました。

ムナポケの公演は、毎年ダブルキャストで、ほぼ全員入れ替えというのが通例。例年、自分達の出番が終わると、相手チームの公演を観ていた。しかし、今年の相手チームは満員との事で、観るのを諦めた。めでたい。ずっと立って観るのは腰がしんどい、かと言って座り続けるのも腰がしんどい。結局しんどい、そんなお年頃である。ともかく観る事が出来なかった、という前提。

今公演のテーマは「プルラリティ」との事。勉強不足でアレだが、ダイバーシティ=多様性とプルラリティ=多元性の違いについて履き違えている可能性も大いにあるので、違っていたらゴメンなさい。多様性は、その人が置かれている属性(男女、職業、年齢とかかな)に対する言葉で、多元性はそれらの人の内側(思想、理念、性格とかかなぁ)に対する言葉、という認識である。ここでは、この違いに触れるではなく、両方を煮物の様にしてお出ししようかな。

自分は、この多様性や多元性には生理的に気持ち的に限界がある、というのがNowである。

「闇の脳科学」という本がある。この本の中では、暴力を振るい逮捕歴がある人物の脳を調べ、衝動性を司る部分の働きが弱いということを突き止めた。そして、脳のその部分に電極を差し込み、活性化させるべく電流を流すと、暴力を振るう事は無くなった。しかし、しばらくして暴力が再発したので調べてみると、電流を流すペースメーカーの電池が切れていたという。これは、忌避される特徴も、外科的に改善する事が出来るという、ある種の希望とも取れる話だと感じた。本の中でも、倫理観に触れられており、こういった実験が封じられていた。

裏を返せば、脳の気質によって、人間が社会の中で生きていけるかが決まってしまう。そして、その気質は自分の努力で得たわけではなく、遺伝であり、すなわち「運」である。因みに、努力をする事にも遺伝子が関わっているとの事。環境の要素もあるが、遺伝子の関与率が40〜50%だと。であれば、人間の在り様は「運」に大きな部分が左右される。

先ほどの犯罪者も、「運ガチャ」でその遺伝子を引いてしまったが故の暴力だった、と言えてしまう。という事は、身長が年々縮み現在162㎝で髭はそれほど濃くないが髪は薄くなっていき筋肉が付きにくく努力が苦手という遺伝的特徴を持った自分と、犯罪者とどれ程の違いがあるのか、と考えてしまう。

とした時、多様性や多元性という土俵に乗るとなると、自分も犯罪者も一緒の社会の中で暮らさにゃならんと言えてくると思う。先ほどの本の様に、遺伝的特徴に対し有効な手立てが打てればそれも可能かもしれない。でも、今の倫理観からしたら相当に難しい。そして、自分や自分の家族がその状況の中で犯罪に巻き込まれたら、自分はその人物を許すことは出来ない。一生を掛けて復讐を果たすかもしれない。故に、多様性や多元性は、今の人間にとってはアンパンマンの様に感じられる。無理ゲーじゃぁないか。

といった理屈があり、上手く飲み込む事が出来ない。反芻し続けてしまう。牛では無いのだが。

んで、「>|<」について。プルラリティがテーマだが、本編の98%は対義語であるシンギュラリティ(特異点)が描かれている。白を語るために黒を滔々と語っていく。

話は逸れるが、稽古の初期、「水アンケート」があった。水についてどう思うか、みたいな内容だったと思う。そこで自分が書いたのが、「More is different」だった。物理学の言葉らしいのだが、「多は異なり」との事。水の分子が1個ある。それを10倍にしても違いは無い。が、10の23乗個集めると相転移が起き水になる、らしい。そして、それを命でやったら何が出来上がってしまうのか。という様な回答をしたと思った。なんと⁉︎「>|<」じゃあないか⁉︎

命が相転移を起こすまで一点に集めて集めて、最後に何かが滴り落ちる。それは「夢」だったのかもしれないし、あるいは「進化」だったのかもしれない。自分はそれらの「祝福」だったのではないかと思っている。

またまた話は逸れるが、今回の芝居の参考にさせてもらったのが、映画「沈黙ーsilenceー」だった。会話劇の様なシーンがあったが、あそこの枯れ具合は、「沈黙」の主人公の終盤の姿だった。「沈黙」は切支丹弾圧が激しかった長崎が舞台なのだが、師が棄教したと報告を受けた主人公が「いやいやいや、あり得ないっしょ」と、相方と共に日本に来る。キリスト教を信奉する民衆が弾圧される中、主人公は「なぜ沈黙されたままなのですか?」と神に問いかける。最後、拷問に処せられる民衆を救うため踏み絵を迫られる。キリストの絵を踏む瞬間、神が語りかけてくる。といった内容。

これは呪いと祝福なのだと思う。呪いを集めて集めて、相転移を起こし、一滴の祝福となる。

これは幸か不幸か、現実にも起こっている事である。例えば、数万人の捕虜の命を使って作ったV2号ロケットがその後、サターン5ロケットとなってアポロが打ち上げられたり、元々の軍事技術が転用された、インターネット、電子レンジ、サランラップ等様々ある。人の命を奪うもの(呪い)が人の生活を豊かにする(祝福)をもたらしてくれる。

そう、「>|<」は既に起こっている事である。それに気づいているかどうか、観測出来ているかどうかなのかなぁと思っている。残酷なのは、代償が大きければ大きいほど、見返りもまた大きいというところであろうか。

全く関係ないのだが、エコエコルームに入って水を搾り取られる際、ドラクエのBGM(教会で復活する際のヤツ)が流れる。誰かが死ぬ事で別の誰かが生きられるという事だと思うのだが、自分の役(1番)が入る際はBGMが流れなかったのだ!これは暗に、生き残っている事なのか⁉︎と、最終公演の際のキワで気づいた。んー、どうなんだろう。自分の考える1番はずるいヤツなので、それも可能性として有りだなぁと思ったり。

兎にも角にも、謙虚に生きることがクズな自分には分相応な生き方だな、と納得しつつ感想とさせて頂こうと思う。自分も戯曲を完成させにゃあな。

久々に

今年の芝居が終わって一週間が経ったし、感じた事などをつらつら書いてみようかと。

あ、観た前提でなので、内容が訳分からなかったらすみません。許して。

・作品について

今までの、永井さん(作者)の芝居の印象は、「ロマンチック」だった。今まで、と言っても、ここ数年での話。「#教室は繰り返す」「奇跡の街」「忍者たち」「太陽の上で」「幸福の王子〜」は、理解し合えない人達が、最終的には、演劇的希望で分かり合える、或いはその兆しが見える所で終わっている。どうしようもないけれども、微かに光が差し込んできて終わるといった印象。

「永井さんは、まだこの世に光を見出そうとしているんだなぁ」と感じていた。

しかし、今年の「紙」は、演劇的な希望は感じなかった。あったらごめんなさい。でも自分は感じなかった。具体的な地域名が出てきたし実際にその地獄を見て来た人達に対し、遠い日本人の我々が、遠い所から思う希望を見せる事に抵抗があったのだろうか。もしくは、祈るしか術が無い作者自身に対する怒りがあったのかもしれない。或いは、ホモ・サピエンスとして生きている我々に対する「これどうよ?」感とでも言いましょうか。そんな感情の味がした。

サピエンスは、他のホモ族に取って代わってきて今がある。どんな風に取って代わってきたのか。もしかしたら、遊び感覚で、他のホモ族を屠ってきた事があったかもしれない。

「紙」の中で、実際に観客に紙飛行機を飛ばしてもらう演出があった。あれは非常に残酷な事なのではなかろうか?と思えてしまう。自分達が遊びでやっている事が、遊びでなく良かれと思ってやっている事でさえ、他者から見れば傷つける行為、さらに行けば殺戮になってしまう。この辺の、観客との共犯関係を築く演出は、「太陽の上で」でもあった。が、「太陽の上で」には、最後の場面で救い的な要素があった。今回は無い。言うなら、以前は油そば食べた後で水を飲めたが、今回は水無し。油そばのままご帰宅である。

因みに、今回のラストは「カミだ…これはカミだ…ただの…カミだ。」で終えている。ただの紙に何ちゅう物を書いてしまったんだ、と言う風にも感じられるし、ただの神の為に何ちゅう事をしてるんだ、とも感じられた。後は、彼女の腕がほどけて紙になっちゃったんだけど、それは、いつか自分が渡した手紙だったって所から、自分が手紙を渡さなければこうはならなかったんじゃないか。とか。色々。

ラスト前の「滝だ!雪だ!樹氷だ!鶴だ!」の件も、凄惨な様子を無理やりポジティブに見せようとする1の悲しさに映る。無理やりポジティブに認識させようとするというか、嘘つきな1の優しい嘘とでも言いましょうか。更に拡げれば、サピエンスの強みである、虚構を信じると言う能力の哀しい活用法とか。

一番の哀しみは、終わりが始まりと言う現実感か。現実のあらゆる哀しみ・不条理はサピエンスがのさばり始めた物語冒頭から始まってしまう事で、現在進行形で続き、またループする様に終わりが見えない事か。残酷だぜ。

いずれにしてもポジティブな印象は全く抱けなかったっす。

このラストが良いとか悪いとかって話ではなく、作者自身を含む全サピエンスに辟易しちゃったんだろうな、と言う印象。でも語らずにはいられないと言うクリエイターとしての矛盾とでも言いますか。そんな感じ。好き。

 

・役者として

常々、「演技」と言う言葉がピンと来ない自分がいる。「演技」って「演じる」「技術」と書く訳じゃないすか。技術は有った方がいいんだけど、それよりももっと生きなきゃ、といった感覚。これを水撒きに例えるとですね、ホースから流れる水が「生(せい)」そのもので、技術ってのはホースの先をキュッと握る事、かなぁ。ほら、ホースの口を握ると遠くまで水が飛ぶじゃないですか。その人の生き様っちゅう水を、キュッと握って観客にぶっかける。それが自分の思う芝居の醍醐味です。下ネタではない、断じて下ネタではない。

なので、稽古前はあーでもないこーでもない考えて、稽古になれば感覚的に生きる、そんな感じ。

芝居は、「ごっこ遊び」そのものだと思う。あらかじめ、台本があるとかの違いはあるかもしれないが、基本は同じ。だから、子どもが仮面ライダーとかウルトラマンとかドラゴンボールごっこ遊びをしたり、人形を使ったままごとをしてるのを見ると、誰よりも仮面ライダーウルトラマンや悟空だし、誰よりも人形の母なのだ。子どもたちは、紛れもなく登場人物として生きている。それが見ていて楽しかったり魅力的に映る。そこに、役を越えて「こういう風に魅せたい!」という役者の意図が透けて見えると、興が削がれてしまったりする。

しかし、技術によって語られる生き様と言うものもあると思う。歌舞伎や能、宝塚とかミュージカルなんてのもそうかもしれない。所作一つ一つに意味があり、観客はそれを見て心を動かされるのだと思う。時としてその技術は、その所作の意味が分からずとも、心を鷲掴みにされてしまう。と思う。

今回、演出から来たオーダーは、「不安定でいてくれ」という物だった。芝居の中で起こる事に「え?え?」と言うリアクションを取ってくれと言うもの。先ほどの「ごっこ遊び」で言えば、ドラゴンボールごっこをしていて急に「じゃ、君、サイバイマンね」って言われたみたいな「え?」感。芝居にどっぷり浸かりすぎるのではなく、常に俯瞰すると言うか、車で言うところのニュートラルの位置。

当然、台本に沿った稽古を繰り返せば、否が応でも身体も心も慣れていってしまうので、苦労した。だからこそ、絡みが多い5に中尾さんと言う人物が抜擢されたのだと思う。何が起こるか分からない、まさしく「ごっこ遊び」その物の緊張感が自分の中ではあった。

その不安定さは、演者と観客との間に存在する、現実と虚構の線みたいな物を曖昧にして、不安にさせる効果があると思う。自分に出来ていたかどうかは別にして、そういう意図が有った配役だったのだと思う。

 

と言う感じでした。手直しするのが面倒なので、乱筆乱文。許して。

長くなっちゃいました。読んでいただいた方の暇つぶしになれば幸いです。

初観劇

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昨日、初めてSPACの芝居を観てきましたよ。

舞台の写真を撮らなかったので、載せることが出来ないけど、凄く幻想的でした。ガンダムがすっぽり収納できるほどの大きな舞台に水を張り、上の写真にあるように、石のオブジェを3箇所に配置してある。客入れの段階から、そこをキャンドルライトを持った役者がゆっくり歩き、舞台奥にはスチールドラムやら何やら楽器が沢山ありましてですね。生演奏も楽しませてもらったですよ。ガムラン(?)っぽい音楽で、これもまた、観ている側に奥行きを感じさせるいい塩梅でした。

ストーリーはこっちに。

ja.wikipedia.org

ギリシャ悲劇ってやつで、思想の違いから、身内の不幸を招き最後は、嘆き、終わるという感じ。

随所に日本っぽい要素が散りばめられており、海外で上演するのを前提とした演出なのが窺える。しかし、日本人である自分が観ても、写真にあるような盆踊りがあったり、影絵や人形浄瑠璃、舞台の石のセットも、最終的には庭園に見えたりと、日本人なら懐かしさを感じる原風景に見えてくるのだから、素直に凄いなぁと思たところでふ。

ギリシャ悲劇という独特な「型」があり、役者のフィジカル面も型を体現するためにソリッドに鍛えられているなぁと言った印象。セリフを口にする話し手と、体で表現する動き手が分かれており、セリフに対して粛々と、時にコミカルに、時に躍動的に演じる役者の心意気に、凄いなぁと思ったです。走る時の水飛沫や、野外劇なので吹く風も、衣装をはためかせとてもいい効果を醸し出していた。

さてさて、作品としてとても良いものを観させてもらったなぁという所だが、自分の感じたことをつらつらと。

パンフレットというのか、観るときに配布される「演出ノート」なるものがあり、物語の概要、演出の内容・意図・背景が書いてある。物語のテーマは、古代ギリシャの概ねの価値観に対して、主人公・アンティゴネが提唱する博愛主義にある(これも演出ノートに書いてあるのよ)。要は、保守に対するリベラル、多様性が大事という事になると思うのだが、「演出ノート」にて種明かしをされてしまうと、見方・受け止め方を狭めてしまう事になっちゃうんじゃないのかなぁと感じてしまうのだ。

また、あまり詳しくは書けないが、SPAC主催のイベントに参加させてもらう予定だったが、残念ながら参加出来なかった経緯がある。その際の、SPACの意見を聴くと、自分としては、大きな者から小さな者へのネガティブな感情がどうしても感じられるのだ。

多様性を謳うのであれば、寛容さとか共生する意識というものが外せないものだと思うのだ。いい作品を作るのだから、尚更そのスタンスが残念に感じられてしまう。

あと、これは個人的な好みのことだけど、素晴らしい作品だけど、参加したいかと問われたら「んー、あんまり」といった感じ。作品や演出のために役者があるという風に感じるのだ。勿論、それはそうなのだが、出たがりな自分には物足りなく感じるだろうなぁと思える。これは、いい悪いではなく、本当に単純な好み。「参加なんて山崎には無理だ」と言われるのは重々承知しております、わきまえておりますです、はい。

よく言われるのが、ドラマは脚本家の物、映画は監督の物、舞台は役者の物、と。だとしたら、せめて、役者の好きにさせてくれる安全地帯を一つでいいから残しておきたいと思うのだ。ただ、全て1か0かではなく、バランスの問題だけど。

音楽で言えば、全体の調和として観せ指揮者のウェイトが高いSPACはクラシック、自分達がやっているのがHIPHOPやBEBOPといったストリート由来な物なんだなぁと新ためて感じた。そして、RHYMESTERのMummy Dが言っていた。「俺らが欲しいものって何だと思う?」って。ストリートみたいな場所で育ってきた自分にとって欲しいのはこれなんだよねぇ。嗚呼出たがりな自分…。

www.youtube.com

とまぁ長々と書いたけど、SPACに対しては素直にRESPECTを、多様性大事だし。そんな感じです。

お疲れ様でした

浜松市でコロナが治りきらない中、大きな声では言えませんが、シン・エヴァンゲリオン観て来ました。

丁度、主人公たちと同じ年齢で作品に出会った自分にとって、今回の公開は「祭り」でありまして。前日、率直な反応として、眠れなかったのであります。

さてさて、どんな作品だったか、語りたくてしょうがないので、ネタバレも含むと思われますので、ご注意を。

端的に感想を述べると、「庵野さん、お疲れ様でした」です。

前作「エヴァQ」にも出てきた単語で、「エヴァの呪縛」と言うものがあったが、一人の作家として、エヴァが足かせのように常にくっついていたのだろうと思う。ガンダムの富野氏もボヤいていたらしいが、「自分はガンダムしかやらせてもらえない」みたいな気持ちがあったのだと思う。ある意味、キラーコンテンツを持つが故の悩みとでも言うのか、ド凡人からしたら憧れてしまうけど…。

話がややずれてしまうが、自分が作品を観るときに心がけている事があり、複数層に分けると言う事。

一層…ストーリーの把握

二層…作品のテーマ

三層…作家の思想

です。これは、元ガイナックスの社長・岡田斗司夫氏の受け売りなので、ご興味のある方は是非。

ストーリー…刃牙。父親との親子喧嘩。

作品のテーマ…エヴァからの卒業。

思想…奥さん大好き、ありがとう。これからもよろしく。

かなぁ。

個人的な面白い気づきとして、今回の「新劇場版」からの新キャラ「真希波・マリ・イラストリアス」は、明らかに奥さんの安野モヨコじゃね?というのがあった。

あと、アスカ。私小説の体裁であるエヴァにおいて、庵野氏の中の一つの人格としてのアスカと、向き合えた事が微笑ましかった。作品を観た当初は、庵野氏の元カノなのかなぁと思ったが、かなりどんでん返しな設定が明らかになったので、庵野氏は他人をここまで鮮烈に描く人柄とは思えない。故に、エヴァの呪縛に取り憑かれた一人として「好きだよ」と思いを伝えられた事は、同じく不器用な自分としても、素直に良かったと思える。

綾波は、エヴァそのもの・作品そのものとしての比喩的なポジションなのかなぁと。だから時間が経った分だけ髪の毛が伸びてたんかなぁ、と。

また、今後の予想として、エヴァは次世代のクリエイターに引き継がれる事になると思う。自分たちドンピシャ世代にとっても、恐らく庵野氏にとっても、エヴァは作品と同時に「現象」とも言うべき物である。その現象は、自分の意思とは別の所で起き、盛り上がり、狂乱し、時には激しく叩かれたりもする。前述の富野氏と全く同じかどうかは不明だが、「もういいなぁ」みたいな思いがあったのかなぁなんて考えてしまう。「あとは任せたよ」と。

作家は自分の恥部を晒してこそ魅力的な作家たり得る、なんて聴いたことがある。自分にとっても「現象」だったエヴァに、一つの終止符が打たれた。喪失感に苛まれるかとハラハラしたが、意外とスッキリした心持で助かった。

お疲れ様でした。コロナが無ければ、きっといい打ち上げになるでしょう。コロナの馬鹿‼︎

強引だけどさ

あいも変わらず、コロナコロナのニュースで溢れ返っております。

自分の趣味でもある芝居も、この状況だと開催し辛いので、残念極みいるところなわけです。

さて、どんなに強引でもいいから、なんとか終息させる方法はないかと考えたわけです。

そりは、何がなんでも外出はまかりならん作戦‼️

内容は、作戦名通り。先ずは準備から。


①概ね2週間、自宅にて過ごさなきゃいけないので、食糧や必需品、余暇を過ごす手段を用意。


②インフラ維持、消防・救急、警察、介護等、緊急を要するサービス以外、外出は禁止。職務にて外出する方は、職場にて寝泊まり。外出者は即逮捕。


③ドメスティックな課題を抱えた家庭の因子は、容赦なく隔離


④費用は、国債発行&日銀買取により捻出。理論上無制限。基本、現物支給。


限りなく人権を無視した本作戦。到底、受け入れられるはずもないとは思うけど、これくらいしなきゃ治りそうもなさ気。

でも、仮に実施されるとしたら、終息にあと何年掛かるか分からないよりも、2,3週間の辛抱すれば大丈夫だとしたら、気持ちが揺れるところだなぁ。

エッジ

FF4に登場した忍者で、エブラーナ国第一王子。

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ではなく、今回は優位性という意味でご理解下さい。

お世話になってる、ムナポケの方々が参加される、オンライン演劇祭が近々開催されます(https://679.jp/archives/event/7mintheater)。

普段の、人前で行う公演が出来ない中で、オンラインで演劇をやるという事に興味があり、色々と考えてみた。


①演劇の1番の優位性・エッジは、何より人の目の前で何かをやる、という事にあると思う。その優位性の翼をもがれた状態で、人がエンターテインメントの可能性を、如何にして、どこまで広げられるかが楽しみです。


②物理的に目の前ではないが、画面の向こう側では役者が演劇を行う。なかなか無かった状況の中で、エンターテインメントとしての資源は何なのか。

1)役者

2)脚本

3)カメラワーク

4)カット割り・編集

5)演じる側見ている側とも同じ時間帯を過ごしている

6)zoom

1)、2)については言わずもがなとは思うが、3)、4)についてはなかなか難しいと思う。それには、製作の時間、カメラを複数所有するなど資金的なハードル、生で編集(?)する技術が求められる。

5)に関しては、日本国内という前提だが、唯一の共有している部分じゃなかろうか。脚本に組み込まれる部分だとは思うが、ここをどう使うか。

6)今までに何度かzoomを使ったが、zoom自体にどんな資源があるかを知っていた方がより優位性があると思う。自分はよく知らない。


③似たような既存の媒体として、ニュースやその他情報番組、ニコ生等があるなぁと思った。これらを面白いと思うところは何なのか、そこを掘り下げていくと、(もし自分が参加するなら)面白い試みが出来るのではないかと思う。

という事は、既存の媒体では出来ない、演劇ならではの手法をプラスしないと、いけないのかなぁと思ったりもする。


④もし自分が参加する側としたら、撮影してくれるスタッフさんに協力してもらい、カメラは動きながら芝居を追っていく状況を作りたい。静止した画面では、なかなかに退屈してしまうと思うから、ここで臨場感を出したいなぁ。

②で触れたが、3)ならば、実現可能な範囲では無かろうか。

あと、個人的な趣向で、料理を何かしら作りたい。料理と同時で芝居が進行するって、今まで無かったから、何か面白い物が出来るのではないか、と思う。言うならば、「生」料理の鉄人的な。

この「生」感をどの様に出して、観ている者と共有出来るかが、面白いかそうではないかの分水嶺になると思う。


色々ブツブツ言ったけど、どんな作品達が出来上がるか楽しみです。

今Deer

今更ながら、「風の谷のナウシカ」全7巻を読みました。

今まで、アニメ版は観てきたんですよ。それこそ、金曜ロードショーとかでも散々やってたし。そういった方、多いんじゃないですかね。犬も歩けば棒に当たると言いますが、人間生きてりゃナウシカに当たる、と言っても過言ではないです。

さてさて、話の内容ですが、アニメ版とコミック版はガラリと違います。大体、コミック版の2巻の途中くらいがアニメ版になってますです。また、アニメ版には風の谷やペジテといった小さな町やトルメキアという軍事大国が登場しますが、コミック版には、更に、宗教大国・土鬼(ドルク)が登場し、腐海にのまれ、残り僅かな大地を奪い合う勢力争いの中で、ナウシカが人々や自然、蟲と心を通わせていくのが主なストーリー。

実は、産業革命から千年後に文明の頂点を迎えた人類は、世界を汚濁まみれにしてしまった結果、巨神兵という裁定者を作って判断を仰いだんですね。その結果、

昔「ひょうきん懺悔室」の神様はグレート義太夫だと思ってたのが自分だけ ...

となってしまい、「火の七日間」で文明を一旦リセット。そして、世界のデバッグツールとして腐海を作ったと。腐海が、汚れた土を浄化している設定は、アニメ版にもあったので馴染みやすいかと思います。その腐海の用心棒として作られたのが、王蟲(オーム)だったと、こういう設定なんですねぇ。しかも、世界が瘴気に満ち満ちてもなんとか生きていけるように、先人達は人類の体を改造しちゃったんだよね。だから、逆に、全く浄化された空気でも生きていけない。つまり、浄化をするために腐海が広がり、腐海から逃れたとしても綺麗な空気では生きていけない。ハッポーフサガリ‼︎

そんな巨神兵腐海を作った先人達は、土鬼領内にある「王の墓所」という場所に、人類再建の要(綺麗な空気でも生きられる術もね)用意し、ナウシカ達に協力を呼びかけるが、ナウシカは拒否する。

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アニメ版は、自然と共に生きる・自己犠牲と博愛みたいなのが印象として強かったけど、コミック版はそこは通過点としてあるが、生とは混沌である。または、闇の中にある光こそが私達の求める生なのだと。皆に真実を語らぬまま、ナウシカは業とも言うべき物を背負い、夜へと向かう人類の黄昏に「生きねば」と呟くのである。

なんと言うのか、"矛盾"がコミック版のナウシカには、よっこらせと腰を降ろしている気がするのだ。それは作者のハヤオ・ミヤザキの作家性とも一致すると思う。例えば、兵器は好きだが戦争は嫌いとか。生きたいが生かされるのは嫌という。

登場する出来事やキャラクターも、メタファーが多く、火の七日間は核戦争で、巨神兵核兵器そのもの。終盤、ナウシカは自らの目的の為に、ナウシカを母と慕う巨神兵を葬らなければいけないと分かりつつ利用する。

綺麗事では生きていくことは出来ない。皮肉な物で、トルメキアのクシャナ王女は当初、終盤のナウシカの様な考えだったが、ナウシカと関わるうちに博愛や自己犠牲を心得ていった。逆に向かっていったのだ。

私利私欲にまみれていた描き方をしていた王族達も、愚かな大衆に辟易し、国土や国民を顧みない虐殺へとひた走ってしまう。

連載から10年以上経つ中で、ハヤオ・ミヤザキの価値観も変容していったのだろう。そう考えると、とても良い作品に出会えた。