大人Empire

子ども達は連休に続く連休で、それに伴いアニメ映画のオンパレードなわけで。そんな折、小僧が、クレヨンしんちゃん「嵐を呼ぶ モーレツオトナ帝国の逆襲」を一緒に観ていました。

改めて良く出来た作品だなぁと感じたわけです。

ケンとチャコ率いる、イエスタディ・ワンスモアが現実の(といってもアニメの中での)21世紀に辟易し、日本全体を「20世紀の匂い」を用いて、大人達を子どもに戻して仮初の20世紀を再構築させようとするが、そうはさせまいとする野原一家。

子どもに戻る、といっても身体は大人だけど心だけ子どもに還る。父ひろしと母みさえの子どもである、しんのすけやひまわりの事を忘れて、子どもの様に身勝手に振る舞い遊びに没頭していく様は不気味さすら漂う。あくまでもクレヨンしんちゃんなのでギャグアニメなのだが、これは大人のための作品だと思う。

というのも、映画中盤にひろしの子どもから今に至るまでの回想シーンがあるのだが、ここで第一号泣。何故に泣けてしまうのかと考えてみた。

大人になる、というのは実は悲しい出来事なのだとオイラは考える。

子どもというのは無限の可能性を秘めているが、成長するに連れて様々な現実を突きつけられていく。その過程で可能性の羽を少しづつ毟られていき、今に至る。どなたにも覚えのある出来事だと思うぜ。ひろしはその中でみさえに出会い一生懸命に歩き・働き、次第に足が臭くなる。しかし、その中でも家庭を築き、幸せを見出す。その幸せを20世紀の匂いで忘れ、自分の手で大事な子ども達を手放し、さらには追い詰めていく。そんな仮初の子ども時代から、現実に戻したのは、自分の会社・家庭での地道な頑張りで臭くなった靴の匂い。そして、涙しながらしんのすけを抱きしめる。そう、たかだか一人の大人にも歴史があるのだ。もぉね、泣けるぜ。

子どもは色んな可能性を捨てて大人に・父に母になっていく、というか仕立て上げられる。そこに大人の哀しさがあるのだと思う。でも、その現実の中で生きていくしかないとしても、何かキラリと光る何かがある。親は、その想いを子どもの名前に託す。希望ばかりではないが、絶望ばかりでもない。

これは人生に対する一つのネガティブな側面の自分なりの捉え方で、今に十分満足している方もいるだろう。そういう人には共感出来ない作品だろう。しかし、しんちゃん史の中でも名作と位置付けられてるところを見ると、やはり共感する人が多いのだと思う。

第二号泣ポイントは、物語もクライマックス。しんちゃんが、ケンとチャコの最終作戦を食い止めるためにタワーを登っていくところ。傷だらけになりながら、ただただ登っていく。血を流し、次第にしんちゃんを描く線も太く歪になっていく所にしんちゃんの必死さやがむしゃらさが現れいく。

下記のYOU TUBEで詳しく語られているが、まだ歴史の浅い子どもが大人とタメを張るには、頑張るしかないという事の現れなのだそうだ。なるほどなぁと。

www.youtube.com

ケンとチャコの野望が潰え、タワーから身を投げ終わらせようとするのを救うのは平和の象徴のハトなのだが、白ハトではなく、その辺にいるハトなあたりのギャグでクスリと笑ってしまうところ。

全体として、過去vs未来に対する希望で、それでも未来を選択するあたりが子ども・大人にとっても明るいメッセージとする、全く良く出来ている作品だ。

故・藤原啓治を偲びつつ連休を過ごすのであった。

その差は

この考え方には、石つぶてを放られるかもなぁ。

先日のニュースで、コロナの患者さんが入院している医療機関に勤めている方の家族に対する差別があると報じていた。

「娘さんが病院に勤めているから、母親のあなたにも出勤を停止してほしい」とか、保育園でも「母親が病院に勤めているから、お子さんも保育園に来ないでほしい」、「病院勤務だからタクシーの乗車拒否された」など。

世の中には差別と区別がある。個人的に思うその差は、根拠・エビデンスがあるかどうかだと思う。感情など不安定なもの由来の住み分けが差別、統計や数値として可視化出来るものが区別だと思う。そして、差別は不要だが区別は必要だと思うです。

所謂、障がい者・健常者という両者の関係も、捉え方によっては捉え方によってはどちらにもなり得る。実際、障がいを抱える人の就職率や年収を見ると、収入だけで生活するのが困難なので、障がい者年金を活用する人がいたとする。年金を受取るには、医師の診断が必要で…、といった具合にある程度の住み分けが必要になる。

これは、社会的弱者である介護職従事者にもある側面で、処遇改善加算という手当をもらって日々の生活の足しにしておるわけで。もちろん、介護職従事者でないと受取れません

。まぁ、生きるためにはカネが必要で、公のところからカネを受取るには、ある程度のカテゴライズも必要、と捉えている。

さて、話は戻って、冒頭の差別問題。

要は、ただただ不安だからといって拒否するのは差別。リスクを数値などで可視化しての対応なら区別になるかと思う。

感情があるのは人間だから仕方がないが、感情だけで物を申すのはいかがなものかと思う。

客観的に状況を捉えて、数値を出し、さらにこの先にどういった事が起こる事が予想されるか。また、予想と違った場合にどこまで対応するか。

もしおいらがこの問題の当事者なら、根拠を先ず訊く。納得出来れば受入れるけど、納得いかなければ根拠を示しなさい、と問うかな。

こんな感じ。

炎上しませんように。

このままじゃ

あれだね、所謂「ステイホーム」で虐待が増えてる。家にいるから外に出ず、飲食店の売上げも減っていて、地元の豆腐屋も閉店してしまったらしい。

もはや、ウイルスで体調を崩すか生活を破綻させるかっていう臨界点を迎えてる。極論を言えば、ウイルスで亡くなるか二次的な原因(失業やそれに伴う不安)で亡くなるかと、切先を喉元に突き付けられてる気さえする。

実際、幸にして自分は仕事を続けているものの、家族と長くいる事が増えた。しかし自分は、自分のペースを乱されるとストレスに晒される。どうしたって乱されざるを得ないので、ストレスである。

テレビを見れば「家を楽しもう!」「家もいいじゃないか!」のオンパレード。何かね、共感できないのよね。そりゃ家から極力出ないよ、出ないけどさぁ…、なんてやさぐれている。

と、言っていても始まらない、考えたらちっとは何か出てくる、かもしれない。


前提…政府が国民の所得をマルっと補償する。これは可能だ。国債を発行し日銀に買取らせる。10万円ではなく、100万円、場合によっては増額。


①家事を極力減らす

特に食事の準備・片付けが一番大変なのではなかろうか。どれか一食はご家庭で、後の一〜二食はテイクアウトで。もちろんその費用は政府の負担。だがしかし、ゴミが出る!という悩みにはこちらはいかがでしょうか?

https://www.packstyle.jp/blog/?p=2037

何と、土に還る容器があるらしいじゃないの‼︎楽しなきゃ。微生物に感謝、なんならその栄養で野菜育ててちょ。


②適度な距離感

自分も前述の通り、ペース、もしくは距離感がいつもと違うとストレスになる。

何が何でも建物の中よりも、長期戦を考えるなら多少の息抜きも必要かと。

三密を避けられる形の散歩や運動等、各々に合った形でやればいいと思う(あまり無責任な事は言えませぬが…)。

ちなみに、密室・密閉・密集・を避けた壇蜜の場合、四蜜になりますね。


③いっそ仕事と捉えて

小さな子どもがいる家庭の苦労は相当だと思う。いっそ、リモートワークやらで自宅にて仕事をするくらいなら、放棄。それよりも子どもや配偶者といい雰囲気を作り、少しでも平和に寄与する家庭警備員の方が、精神衛生的にも中・長期でみた経済活動的にもいいし尊い仕事だと思う。

会社の仕事は誰かが担える。しかし、家庭警備員はその人でないと務まらない。立派な仕事だ。

あ、会社の方は政府が補償ね。


④一人の方は

2010年に起きたチリでの落盤事故。閉塞された空間で、命の危険や死の不安と常に隣合わせだった彼等が無事に生還できた理由は、役割を与えられたからだそうだ。もちろんそれだけじゃないとは思うが。

一人暮らしで不安ならば、生活の中にルーティンを取り入れたらいかがだろうか。

朝起きて→部屋の掃除→朝食→洗濯→…etc

自分は、決まった波に乗っかっているだけで幾分か安心できる。それに、綺麗な部屋での朝食、これが意外といいものだ。


とにかく、無理に楽しまなくていいと思う。だって楽しくないし。

それよりも、数ヶ月、場合によっては数年単位の戦を乗り切る戦略が欲しいのだ。政府が心配事(特に金)を担ってさえくれれば、この戦いは有利に進める事が出来るはず。

人とは脆い生き物だと思う。僅かでもホルモンバランスが崩れると破綻を来たす。誰もがマルチタスクをこなせるほど優秀な人ではない。しかし、弱さや己の特徴を見つめ直す事が出来たなら、生きていく負担は幾分か軽くなる。自分がそうだったから。

大丈夫、各々がシングルタスクで籠城すれば、彼のウイルスは凌げる。

Ultimate deflation

ちょっと前に、AIに奪われる仕事ランキングみたいなやつを見た。

記憶にある順位が高かった仕事は、医者とか弁護士とか、社会的地位が高い職業だった。幸か不幸か、自分が携わっている介護の仕事は順位が低かった。

このままAIが発達し、人間がやっている仕事を代替していき、ほとんどの仕事をしなくて済んだとしたらどうなってしまうのか?

工場ではロボが車や家電、工業製品を作る。農場でも同じくロボが野菜や果物を作る。病院に行ってもロボが問診・診断・投薬をしてくれ、警察官も屈強なロボが犯罪者を追いかけ回す。政治も利害関係などない判断で淡々と行われていくのだろう。物流もドローンがこなす。

様々な物をロボが生産し運搬するとなると、物の値段はどんどん下がっていく事だろう。人件費がかからないし、素材もロボが作っている。そもそも、お金が無くても別にいいんじゃね?という世の中になる。

まぁ、実際はどこかで規制が入るだろうからそこまでいくかは疑問だけど。

はてさて、人間はというと、「生きる」という事に今以上に意味を見出そうともがいているのではなかろうか。宗教や芸術とか、形にならないものに注力している事だと思う。

だがしかし、現在のAIでさえも聴き分けが出来ないほどに素晴らしい音楽を作れるらしいじゃないか。むしろ、AIの音楽の方が良いという意見が多いとか。こうなったら、絵画や舞台、その他の芸術分野も取って代わられるのも時間の問題かなぁ。

そうなってくると、ますます人間が暇を持て余す事必至だ。

するとどうなるのだろうか、と予想してみた。先ず、仕事をしていることがステータスになると思う。人でなければ出来ない、代替が難しい分野。その頃の技術で代替不可能なものがどれだけあるかは未知数だが、自分が携わっている介護職はなかなか生き残るのではないか?

今現在、介護職の社会的地位はかなり低いが、何十年何百年後には下克上を無事に果たして、インテリジェンス層がこぞって職を奪い合う!?とか。ピクサーの「Wall E」みたいな世界観なイメージ。

この未来は果たして明るいのだろうか…

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錬金術師

日本の経済において、お金より大切なものがある。それは、サービスを供給する能力だ。

日本政府が国債を発行し、それを日銀が買い取れば何ら問題ない。日銀は政府の子会社だからだ。例えば、トヨタダイハツからお金を借りたとして、そのお金は返す必要があるのか?という事に等しい。

①政府は1,000兆円の国債を発行する

②子会社の日銀から1,000兆円もらい公共事業・補助金・バラマキ、名目は何でもいいが配る

③受け取った人は貯金やローン返済ではなくバンバン使う(返済や貯金は、経済の流れからお金が外れちゃうから)

これでいいんでないかい?と切に感じる。特に、食品や医療サービスを提供する人々に手厚く配る。

これが、ユーロに加盟している国や通貨の信用度が低い国では出来ないが、日本では出来るのだ。ただ、日銀が直接政府から国債を引き受けることは出来ないが、閣議決定すれば出来るとのこと。

何だ、結局出来るんじゃん。さながら錬金術師じゃないか。しかも、賢者の石まで持ち合わせているチートっぷり。お金を大量に発行した弊害として懸念されるのが物価の上昇だが、かつてのドイツやジンバブエの様なハイパーインフレが起こる事は考えにくい。直近の総務省のデータでも消費者物価指数は0.6%(政府・日銀の目標値は2%)。ただでさえ供給能力が逼迫しているんだ、せめて財布に余裕があれば不安も少しは解消されて無用な買い占めも減るのでないか、と思う(希望的観測…)。

コロナでも人が死ぬが、このままでは政府までもが人を死に追いやる事になる。

英断、などではない。ゲームのルールブックをもう一度読み直す程度の判断力で十分だと思うぜ。

しかし悲しいかな、今の政治家を選んだのも我々国民というのもまた事実。

政治家こそ錬金術で作れないものかと憂いてしまうのだ。荒川先生、政治家の錬成陣書いてくらはい。

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我が青春、90年代

先日、ファイナルファンタジー7(以下FF7)のリメイクが発売された。ゲームに興味のない人でも、FFという作品の名前くらいは聞いたことがあるのではないか。リメイクということは、元々は97年に発売された。

この元々のゲーム、(あ、ネタバレ若干含むかも…)所謂ラスボスが自分の内側、心の中(正確には細胞の中なのかぁ)にいるという設定。何とも90年代っぽい設定だったと今になって思う。

わちきにとって90年代の大きな出来事といえば、バブル崩壊地下鉄サリン事件阪神・淡路大震災湾岸戦争エヴァンゲリオン放送開始、ノストラダムスの大予言とかかなぁ。

勿論、いい話題もあるだろうが、性格のせいかネガティブなものの方が記憶に残りやすい。

アニメにしても、それまでの作品は明確な敵がいてそいつをやっつけろー、みたいな流れが主流だった(と思う)。ガンダムが、リアルロボットアニメの魁としての金字塔を打ち立てたが、敵は明確に同じ人間だった。しかし、90年代の事件や出来事を振り返ると、エヴァにしてもFF7も得体の知れない何かに人類は立ち向かわなくてはいけないタイミングだった印象が強い。

今後も、人類の敵は同じ人類であるという前提は変わらないが、得体の知れない新型コロナウイルスの蔓延で、表現者の作品や人々の生活に変化をもたらすと思う。会議や飲み会の遠隔化、生活のミニマム化、この危機を乗り越えた先の生活はまたきっとガラリと変わる。

2020年代を良い青春だと振り返られる礎を今は静かに築こうと思う、休日の朝なわけで。

あ、いいこと言った気。

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24

諸々のプライベートが落ち着いたので、徒然なるままに書いちゃおうかと。

昔から、24時間テレビがどうにも好きになれない。最早アレルギーに近いかもしれない。何で好きになれないのかなぁ、と考えてみました。

これから文章を書くにあたって、健常者・障がい者と記述しますが、気持ちは便宜的に使用するんだぜ。

24時間テレビといえば、障がいを持っている方が、あれやこれやと頑張って視聴者に感動を届け寄付金を募る、といった番組内容(だと思っている)。

 

1、そもそも「感動するでしょ!?」と見せられたものが好きでない

天邪鬼なのかぁ?自分。基本、多くの人に分かりやすく感動を伝えなくては番組として成り立たないので、どうしても分かりやすい内容にしなくてはいけないと思う。所謂、ベタというやり方。自分は、「分かる人に分かればいい!」みたいな作家性が強い人が好きなのであります。だから。

2、バリバラの影響

近頃、24時間の裏でNHKが「バリバラ」という番組をぶつけてきている。そして、出演者がわざわざ「24」と書かれた黄色いTシャツを着るというアンチっぷり。この番組、障がいを持っている方も出演し、本家のことを「感動ポルノ」と評している。

ja.wikipedia.org

そもそも、障がい者は頑張らないといけないのか?頑張りたくない人だって当然いると思う。

それに、だらだらするのは類人猿からの本能らしいので仕方ないって。

 

しかし、まだ何か腑に落ちない。単純に24時間テレビを異を唱えるだけでもしっくりこない。

事実、障がい者の所得は健常者の所得より低いとのこと

sakuya-shougainenkin.com

GAINAX元代表岡田斗司夫氏も言っていたが、バリバラの影響で24時間テレビの本来の目的である「募金」に支障が出るのも事実なのではないかとのこと。そして、所得が低いのであれば、何らかの方法で確保しなければいけない。

多分、自分が感じていたアレルギー的症状は、無理やり感動させるのではなく、純粋に面白い物を作ってお金を募る方が余程潔い、というところにある。「感動するでしょ!?お金ください」よりも「これいいでしょ!?お金ください」の方が好き。

俺らだって、ダンスやら芝居やら好きだからこそ、いかにして品質を上げていくかに注力するわけだし。その上で料金をいただく。

感動のテロリズム的24-Twenty Four-はもう結構で、関係者が本気でいいものを作って見せてお金を頂く。これが好き。

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