この間

先日、有吉弘行氏とマツコ・デラックス氏が出演してる番組(名前忘れた)で、蛭子能収氏について話していた。

蛭子氏は、軽度の認知症と診断され、現在、仕事を休んでいる。有吉氏とマツコ氏は、蛭子氏さえ良ければまた一緒に仕事をしたいと話していた。

テレビに出るという仕事柄、また、蛭子氏のキャラクターという立ち位置を踏まえると、ボケ・突っ込まれる役回りが多かったと思う。

今後はそのボケが、意図したものではなく、器質的なモノになっていく事に、有吉氏・マツコ氏は「やっぱダメなのかなぁ」と憂慮していた。

これは、大変有意義な内容だと思う。

仮に、蛭子氏が望んで共演が実現した場合、何というか、凄く対等な関係だと思うからだ。

人は、健常者・障がい者という枠組みで語られる事もあるが、すべからく、足りない生き物だと思う。ただ、その足りない部分が日常生活にどの程度影響するか、という違いだと思う。

以前のブログでも書いたが、所謂、障がい者という枠組みは、補助金を活用する際に必要な枠組みでもあるが、それは、多数派が少数派を区分けしただけに過ぎない産物で、自分は特別な意味はないと考えている。

ちと、話が逸れたが、仮に蛭子氏が器質的なボケをして突っ込まれたら、有吉氏に「この特殊性癖め」とか、マツコ氏には「大柄過ぎる」とか突っ込み返したらいいと思う(突っ込みの質に対して言及しないでね💦)。

足りない者同士が、互いの足りない部分を認めつつ、笑いに出来たら、更にいい世の中になると思うのですよ。

でも、観ている側にしてみれば、より高いリテラシーというか、倫理観が求められるのも課題だと思う。信頼関係があってこそのやり取り。

違いを認め合う、なかなか出来ないんだよなぁ。


と、子どもたちとすき家でそんな話をしていたのでありまふ。