ぶんせき
ペコパの漫才が面白いなぁと、普段あまりテレビジョンを見ないザキヤマでもふと見てしまう。
何故だろうか、と考えたわけです。
松本人志氏が「のりツッコマない」と評していたのが面白かった。以下に考察。簡単なセリフを用意しました。
※ザキヤマは笑いの造詣が浅いという事をご承知おきくらはい。
ツッコミ「この頂いたケーキをどう食べようか
ボケ「じゃあ顔からダイブだね」
ツッコミ「いや、そんな食べ方、もきっとある」
①見ている側に突っ込みを委ねる
所謂、王道な漫才だと、「いや、そんな食べ方あるか⁉︎」と、なるところだと思うが、セリフは、ツッコマずに再度ボケるという構造。
見ている側は、「あるのかよ⁉︎」と突っ込む事が出来る。セリフも、「いや、そんな食べ方、」までやや早く、「もきっとある」は少し遅く。ここでもう一度ボケている。そこで見ている側はツッコムのだ。
②汎用性の高さ
「のりツッコマナイ」を見ている側は、己に合わせてツッコム事ができる汎用性の高さがある。例えば、人によっては「行儀わるいよ‼︎」となるかも。ツッコミとして言わんとする内容は同じでも、見ている側の語彙で自由にツッコメる。
③落語的「業」の肯定
中田敦彦氏のYouTubeチャンネルで紹介されていたが、落語とは業の肯定だと立川談志氏が言っていたそうな。
落語の登場人物って、往々にして何かが足りない人達が織りなす日常の歪さが面白いんだって。
「目黒のさんま」という噺に出てくる殿様は、たまたま目黒で食べたさんまが美味しくて、家来にもう一度さんまが食べたいと言ったところ、家来が殿様に気を遣い過ぎて、美味しいさんまを台無しにする方法で調理して、殿様も「さんまは目黒に限る」と、さんまとは無縁な目黒を褒めてオチがつく。らしい。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/目黒のさんま)
要は、ケーキにダイブするボケが世間知らずな残念な人なら、それを肯定するツッコミもまた世間知らずな残念な人、なのかよ⁉︎と、ボケ・ツッコミ双方が落語的な業の肯定が起こり笑える。
④笑いの源泉
笑いの根っこには、暴力性が潜んでいると思う。
幸せな家庭の映像(抽象的だけんど)を見て、微笑ましいなぁとは思っても爆笑にはなりにくいと思う。それよりも、落語の様に、どうしようもなく残念な人(これまた抽象的だけんど)が一人でもいた家庭の映像の方が笑いが起きやすい、と思う。
人は、自分よりも何かが欠落している人や動物を見ると可笑しくて仕方がないと感じる生き物だとも思う。ここに笑いの残酷さが潜んでいると思うのだ。
ただ、落語はその様な人達を肯定している。「皆んな何かが足りないけど、いいんじゃね?」みたいな。そこに優しさ・人情が生まれるんだと思う。
⑤時代背景
経済学者のトマ・ピケティ氏が提唱する様に、r>gという不等式がある。富める者はより富み、富まざる者はより富まない、という、所謂「拡散社会」が落語が出来た室町時代より現代は顕著だと思う。
が故に、下の者はより下を見て相対的に自分の位置を高めようとする。
そんな人間の業に疲れ切った現代の人は、ペコパや落語の様な「不幸な人がいない」笑いを欲するのではないか。
とまぁ、書いた書いた。
色々とツッコミどころ満載なぶんせきだとは思いますが、笑って許してちょ。